昭和41年05月31日 夜の御理解
信心を頂いて段々喜びと安心の生活がでける様になる。それは本当の事が段々分って来るからである。信心しておっても喜びも湧かない、安心も行かないというのならそれはちょっとおかしい。そう信心しておかげを受けておると云う事をだけであって信心を頂いておるとは言えない。信心を頂くという事は神様を信ずる力が強くなる。信心を頂くという事は本当の事が分る。
本当の事を教えて下さるですから、ですから本当の事が分るから慌てんですんだり、又、安心しておれたり、又喜べたりするのです。ですから、そこんところを、ひとつ信心のまあ成就。ああ、自分の信心はこの程度のもんだなと云う様な事を分らして貰って、一段信心を進めて行かねばならんと今朝から、朝の御祈念の御理解の半ばで御座いましたでしょうか。あのう、福岡から大森さんて方が参って来てですね、娘さんがここにどうでしょうか、十回位参った事があるでしょうか
、今年になってから、まだ四、五日前に一回と今日始て今日は一人で参って来ておりましたが、中々頭のいい子ですし、まあ、考え方も高校二年生でしょか、ですけれども、もう普通の大人でも及ばない様な話振りです。もう、中々理論もたつ娘さんです。それがもう、今日はえらい早く参って来たねともう今日は。夕べ寝られない事が御座いましたもんですから早起きして参ってまいりましたと。どうしたこっちゃろうかと思うた。先生こう云う様な場合どんな風にして生きて行くのが本当でしょうか。
本当な事を知りたいとね。どう云う様な生き方をしたら幸せでしょうか。昨夜から或る所にどうでも必要な用事があって電話をかけた。もうそこまで来て何回も何回も掛けたけれども、向こうには確かに人も居るようなけれども電話に出なかった。一時間半位その事で、とうとう出ないから諦めて寝すんだけれども寝まれない。まあ、その成程、その事情を聞きますとまあいうなら、娘心というですか、そうもあったかもしれないと思うのです。そいで、私があの申しました。
すみさん大森すみ、すみさん私ならね、私ならって私しゃこう云う様な生き方をするんですよと、教祖生神金光大神様が開かれた道、天地の親神様との間に開かれた道、その信心その道というのはどういう道かというとね、もうその天地の親神様の御守護お守りお受けておるその事を、金光大神のお取次によって分らして頂いて、又金光大神の体験によって御自身がおかげを受けられた事を、色々な教えに残しておって下さる。
そういう教えを頂かして頂いておる訳なんですけれども、その教えを頂きながら私しゃこういう様な事を体得しとるんだと。というのは例えていうならば、私が久留米なら久留米に用事があってやらして頂いた。所がああそこまで行ったら例えば、その何ていうですかね、信号機ですかねこう行きよったら例えば、赤の信号機がこう出たとする。シグナルが出たとする。その時にあら今日私行っていけなかったんだろうかと。
どうでも行かなければならんと思うとったんだけれども、神様が行くなと仰っとるんだろうかと、まず思うてみると、そこにゃやっぱり行かなきゃいけないと思うなら、私しゃすぐ自分を反省する。反省すると、成程心の中に改めねばならない事やら、思い方が間違っておった事にすぐ気がつく。それで矢張り行かなければならんのなら、そこんとこお詫びしている内に、青の信号機に変わるからそこを私しゃ通って行く。ですからもう何時も場合でも私しゃ、まあ安心だとこう言うた。
中々頭がいいですね、先生、そう云う様な生き方があったんですねて、昨日、私が電話をかけた、どうでも用があると、何回も何回もかけた、かけたけれども、居るようであっても出ないね。そん時に私は、さあ神様がもう、むしろ掛けるなと、もう、用は無いと仰とる時なんですねという訳なんですね。そうなんですね。神様がもう、絶対の神様が会うなとか、掛けるなとか、行くなとかと言うておられるのであるから、もうこんなに安心な事はないもんねて。
先生、そうでしたねって言うから、もう、本当にあの今朝早う参って来てよかったと言うて喜んで帰ったんですけどね。今日も午後からさがっとりましたら、四時頃でしたでしょうかしら、善導寺の村山さん所の娘さんが参って来た。もとこさんという。こちらはもう高校三年生になっとる。御承知の様にお母さんが亡くなりましてね、そいであの二度目のお母さんがみえとる。
それをお父さんが大人しい、お祖母さんも義理の中というもう義理から義理の中、そいでお父さんが非常に大人しくて、そのまあ、何でも私共に言う事がこう聞き届け、聞いて貰えない、頼りにならないという訳なんですね。そいでもう、そりゃ本当にもうね、深刻な事で、何回か参って来よりました。今日も段々おかげを頂いて、あらだいぶん顔色よくなったね。もう椛目に何遍通うて来よる内におかげ受けよる。
先生それが本当におかげ受けよりますと、何故そのおかげを受けよるかと言うとですね、先生あの今まで私が人に頼り過ぎ取った、又頼ろうと思うとった。お祖母ちゃんに頼ろうと思うとったね。所が頼るだけにお祖母ちゃんが、その思うて下さらなかったり、相手になって下さらなかったりしたら、もうそれこそ、がっかりしたね。本当にやっぱ肉親のと言うのは、お父さん一人しかない。お父さん一人でもいっこう頼りない。そこでたまには親であって、というてそのまあ、腹たったとね。
義理のお母さんはまあ、仕方ないとして、というて、とにかくそのもう、とにかく誰かに縋りたい誰かに頼りたい。何か自分のその言い分やらを、心の底から聞いて貰いたい人が欲しい、欲しいと思うておった。こういう時にお母さんがおったてくれたら、お母さんにこれも話そう、これも相談しようのにと思うともう、何時も情けなくて情けなくて堪らなかった。先日先、先、先回にお参りして来た時に、先生が全ての事を実意も持って、先生この問題なら私はそのどう言う風に処理していったらいいだろうか。
さあそれは大変な難しい願いだけれどもね、まあとにかく信心は教えをもう、足元の所から行じて行く以外にはないんだからね。今、例えば今、目の前に起きて来ておるその問題をひとつひとつ実意を持ってそれに取り組んで行く以外にはないね。勉強せんならん時には、本当にその問題はむこうなんだけれど、まあその勉強しなけりゃならんのに、その問題の為に勉強を疎かにしたりね。
そこまで、お使いにいかんならんのだけれども、どうもいやだと思ったり、それもいやと思ってもその事をひとつひとつ実意も持って、なして行くんだと。さあこれから下駄を履かして頂くでもおりる時にゃ、下駄を履かせて貰いますというて履きなさいよ。バスで帰るならバスに乗せて頂ます、降りたら有り難う御座いましたと言うんですよと。そういう生き方がその琴を実意を持って行くことなんだから、実意をもってそのことを大事にして行く事なんだから。
問題は向こうの方なんだけれども、やっぱり手前の方から、ひとつひとつ歩いて行かなきゃそこに到達しないよと、私しゃ言うた。だからその事を実行さして頂きよりますと、こう、ところが先生あの心の中に、先生から顔色が変わったと言われてから本当に嬉しい訳なんです、もう、この頃は楽しゅうて堪らんごとなったと、もう、ここで泣くんですよ。その机の前でね。
まあ、今日そのまあ、いろんな問題もあるけれども、ひとつ半分が嬉し涙げな。私はこんなにも間違いのない、神様を頼りにする事がでける様になって来たという喜びなんですね。そして、先生が仰るそのだぁれも頼りになるもんなおらんのだと、なら、肉親の例えば、なら、お母さんらがおっても、本当の事いうたら頼りにならんのだと。頼りどもしたら、んならというて、なら、今の義理のお母さんがもとこさんというて、側によって下さって時にゃ話もしたらええ。
頼りにもしたらよい お祖母ちゃんがもとこさんというて言うて下さったらお願いしてもよい。お父さんがどんなふうに、もとこしとるかと言うたら、今の内話してもよい。こっちから持って聞こうとしなさんな。もう、こっちから持って行くと向こうが膝折れたらこっちがスッテンころがらなならん。そすとはがゆい思いをしなければならない。情けない思いをしなければならない。頼るのは神様だけ。
そこでもとこさん、実意丁寧な生き方をさして貰いよったらこの神様は何時でも私を、こう、守っておって下さるんだなという体験が、ここまあ二十日か、十日位の間に燃えて来とるね。その実感がです、神様のお守りを受けておるなぁと。やっぱ先生が仰った様に神様は守って下さるなあという体験が生まれて来た所ですね。言わば、顔色が変わる様なおかげを頂いておる。
まぁだ、これからこれで良いと云う事はないけれども、その神様はいよいよです、今あんたが十を信じておるならば、百、百信じておるならば千も信じれる様になったら、いよいよ安心。いよいよ喜びがでけるだろう。しかし有難いなぁ、そしてあなた方が教えによって自分の心が助かって行く。顔色が変わるごと助かっていけれる、有難い道じゃないかというて、話合った事でございました。けれどもね、そういうまあ、今日はその二人の高校生の方のお届けをさせて頂いた。
取次の、いうなら模様であり又、おかげを受けて行きよる助かりつつある、言わば助かりの姿なんですね。お互いがどうでしょうか。例えばそう云う様な生き方をせずに、実意丁寧がひとつの、そのなさずにね、そして只向こうの方のおかげだけを求めておる様な信心じゃなかろうかと。只、自分の用のある時だけ、只、がむしゃらに拝むと云う事だけが、信心の様な事だけではなかろうかね。
なるほど、神様が行くなとはっきりおっしゃっておられるような状態の時でも、お詫びもせずに、改まりもせずに、お願いもせずにがむしゃらに、先方の方に進んで行きよる様な事はなかろうか。赤のシグナルも何も無視して行く様なところに、必ずそこには危険があるね。御無礼がでける。そういう例えば、ひとつ生き方というものをです体得して行かなければならない。そして、今朝から頂いとる御理解なんですよ。村のもとこ、ちよみさんの話なんですね。
ああいう例えば生き方、本当にもう、自分のごたる不幸なもんがあるだろうかと云う様な、自分がこの世で一番貧乏くじ引いとる様な思い方の中には、絶対助かれない。それこそ三日間も絶食しなければならない様な事になっ来る。本当に相すまじゃった、本当気づいた時にゃ、もうそこにすでに天地がお腹の中にね、発動が始まっておる。もう、お腹が三十分間からぐるぐる言いだした。そしてすきっとしたおかげ頂いた途端に、三日間の食事も一変に頂く程のおかげを頂いたと。
こういう、たったそれだけのおかげ話なのだけれども、この中に大変ないわゆる私が先程、申しましたのは信心を身に付けて行く事によって、心が助かって行くと云う事。信心の教えを本気で踏ませて頂く所にですね、もう、はがゆい思いも何もないも、夕べから寝むれなかった様な事が一変にすきっとする。そういう頂き方、そういう行き方があったんだと。村山さんの場合なんかは、実意ももってして行くところに神様の御守護を受けておるんだと、頼りになるのはこの神様以外にはないんだという。
神様をはっきりこれに頂いて行きよるね。これは信心を身に付けて行く事。けどもおかげも受けなければならない。おかげを受けなければならん為には、お互いが喜ばなければならないと。おかげを受けておるものにも喜びが足らん。ようおかげを頂きたらんごと思うとる。そして、誰、誰さんを見た所が羨ましい様な心が起こって来る。途端に三日間も絶食しなければならない様な、はっきりお知らせを頂いとると云う事分った途端に、おかげを受けておる。天地の発動が始まるのであるね。
私共が喜ばせて頂くおかげを頂いておるのにです、喜ばずに何かそこに不平不足を感じたりね、まあだ、おかげを頂き足らんごと思うたり、自分位なこう不幸な者の様に思うたりする。おかげの心の中には、おかげが受けられません。おかげを受ける為にはどうしても私共、おかげを受けておる事、おかげを受けておる事としてです、心からお礼の申し上げれる信心にならして貰う時、喜びで開けた道だからと仰る。その喜びを自分の心に感じれれる時おかげの頂けれるね。どうそおかげを頂く為には、そういう信心、信心をいよいよ自分のものにならさせて頂く。
自分の心の中に安らぎ又は喜び、頂かして頂く為に、本気で道を行じなければいけない。本気で全ての事を大切に実意を持って、もう目の前の事、足元の事からまず取り掛って行かなければならない。おかげは向こうの方なんだけど、もう、手前からの方が頂いて行くと云う事がね。神様をこれに心の中に、神様ははこんな働きを、私の上にして下さってるんだなあと言う体験。そこにこの神様にお縋りしておきさえすれば大丈夫という心の安らぎが生まれてくるね。ここに心の助かりがあるじゃないですか。
どうぞ。